『「無理」の構造―この世の理不尽さを可視化する』(著・細谷功/dZERO)

『「無理」の構造―この世の理不尽さを可視化する』(著・細谷功/dZERO)

大人なら誰もが一度は感じたことがあるだろう。「世の中は理不尽である」と。意味のわからない命令ばかりする上司や筋の通らないクレームを言う顧客、古い考えを押しつけようとする親。どれだけ言葉を尽くして説明しても、相手は頑として譲ることなく「自分は正しい」と、勝手な言い分ばかり押しつけてくる。世の中は間違ったことばかりだ。

しかし、果たして本当にそうなのだろうか?

本書『「無理」の構造―この世の理不尽さを可視化する 』では、理不尽とは「自分の中から生まれるものだ」という。そもそも理不尽という感覚とはどういうものか。それは、「正しいことがわかっていない」「道理が通っていない」という他者への不満である。「自分に見えている正しさ」について、「他者が見えていない」と感じることこそ、理不尽さの根源だ。

ここまで考えると、少しおかしなことが起こる。「誰もが感じているだろう理不尽」は、「自分にわかることが他者にはわからない」という状況が生むとするなら、一体誰がわかっている人で誰がわからない人なのだろうか。誰も彼もが揃って「アイツはわかっていない」と思っている状況だというのだから、何ともおかしな話である。

実はこの不思議な状況こそ、「理不尽さ」の正体を見極めるポイントだ。つまり、相手に対して「何もわかっていない」と感じているとき、相手もまたこちらに対して同じ思いを抱いているのである。その原因は、人それぞれが持つ「非対称性」だ。

たとえば、上司と部下の関係を考えてみよう。上司からの指示に対して、部下は「もっとハッキリした指示がほしい」と言う。それに対し、上司は「裁量のある指示なのに」と不満を覚えるといった状況だ。

このケースでは、どちらかに非があるというわけではない。部下は「曖昧な指示で勘違いをしたくない」と思っているだけであり、上司は「自由にできる部分を残すほうが実力を発揮できるだろう」と考えているだけだ。しかし、2人はお互いに不満を覚え、理不尽さを感じるだろう。その原因は、上司と部下がそれぞれ「視点」が異なっているからである。部下は「失敗なく仕事をこなす」ことを大切にしているが、上司は「より効率的に働く」ことを求めている。だから、それぞれの主張は噛み合うことなく、「どうしてわからないんだ」と双方が腹を立てることになるのだ。

こういうことは世の中に山ほどある。「家族のために仕事をしている」と威張る父親と「家庭を犠牲にしている」と憤る母親。「将来のために勉強しろ」という教師と「勉強なんて役に立たない」という生徒。「経営が苦しい」と悩む経営者と「給料が少ない」と嘆く従業員。例をあげればキリがない。だが、視点の違い――視点の非対称のために、いつまでも噛み合わない議論を続けている事実に気づかない人のほうが圧倒的に多いのである。きちんと原因が理解できれば、理不尽なことが減らない理由もわかるだろう。同じ視点を共有して、話ができる相手など、そう簡単に見つかるものではないからだ。

視点の非対称こそ理不尽の原因だが、それを理解したなら理不尽さは消えるだろうか。残念ながら、そういうわけにはいかない。なぜなら、視点を動かすというのは途方もなく難しいからである。

先ほどの上司と部下の例を改めて考えてみよう。上司と部下には、それぞれの視点があるために、主張が噛み合わない。そうであるなら、どちらかが相手の視点に合わせれば、きちんと議論が成り立つはずだ。しかし、そうなると問題は「どちらが視点を変えるのか」である。

もしあなたが上司に理不尽さを覚える部下なら、「上司の考え方を変えてもらおう」と思うだろう。逆に、困った部下を持つ上司なら、「部下の考え方を変えさせればいい」と思うはずだ。つまり、視点の違いに気づいた人の多くは、問題を解決するために「相手を変えよう」とするのである。お互いに、「相手が変わればいい」と思っているなら、結局は何も変わらない。当然、理不尽さは残り続ける。

要するに、「自分はわかっている」「自分は正しい」という考え方こそ、理不尽さを生み出しているのだ。人にはそれぞれ異なる視点があり、価値観があり尺度がある。それにもかかわらず、視点の違いや価値観の差を理解しないまま議論をするから、相手と話が噛み合わずに理不尽さを覚えるのだ。

仮に視点や価値観、基準の違いに気づいたとしても、今度は「相手の考え方を変えればいい」と思ってしまう。視点を合わせるだけなら、「自分から歩み寄る」という選択もあるはずなのに、そちらは選ばれない。すべては、「自分は正しいが相手は間違っている」と思い込むからだ。それでは、理不尽さから逃れることはできない。

本書は、何らかの問題を解決してくれるような本ではない。人によっては、「煙に巻かれている」とさえ感じるだろう。あるいは憤りさえ覚えるかもしれない。なぜなら、この本は「もし理不尽さを感じるなら自分を省みるべきだ」と訴えてくるからだ。厳しい言い方をするなら、「あなたは勘違いをしている」と指摘されるようなものだ。

しかし、そうした話を受け入れられる人にとっては、とても大きな学びを得られる本でもある。「理不尽さ」の影に隠れている人々の「勘違い」の正体について、1つずつ丁寧に教えてくれるからだ。「人々の視点が異なるのはどうしてなのか」「言葉を尽くしても理解されないのはなぜなのか」「どうすれば理不尽さから解放されるのか」といった、いくつもの課題を考える手助けになるだろう。改めて言うが、本書が具体的な問題を解決する答えをくれるわけではない。この本は「道しるべ」でしかなく、実際に道を歩くのは読者自身だからだ。