「渋谷のハロウィン」を考える

「渋谷のハロウィン」を考える

いつの間にやら日本に「ハロウィン」が定着したようだ。もっとも、日本におけるハロウィンは、本来的な意味を失っているようにも思う。たくさんの人が仮装して出かけていき、どこかに集まってワイワイ賑やかに過ごすのが「日本のハロウィン」になった。ハロウィンに限らず、日本に入ってきたイベントは大抵本場のものとは変化するものだから、「こんなものはハロウィンではない」などと原理主義的な主張をする気はない。

2018年も、例年通りハロウィンは大盛り上がりだったらしい。ニュースなどで毎年取り上げられるのは渋谷の様子だろう。スクランブル交差点にはコスプレをした人々がごった返し、まともに歩くことさえできないほどにぎゅうぎゅう詰めになっていた。私は人混みが嫌いなので、こういう時期には渋谷や新宿のような都心部には近寄らないようにしている。

しかし、多くの人が集まるという現象自体は素晴らしいことだ。人を集める=集客というのはあらゆる会社・自治体が頭を悩ませる課題である。人が入らないと飲食店は潰れてしまうし、地方の疲弊が社会問題になる1番の要因は「若者が離れる」ことだろう。そういう視点から見るなら、渋谷というのはハロウィンというイベント1つで数えきれない人が集まるのだから、やはり栄えている土地だといえる。

だが、どうもそういう単純な話ではないらしい。ハロウィンが近づく10月のニュースを見ていて、私は驚いてしまった。ハロウィン当日は、渋谷の商店が軒並み売上を落とすというのだ。一体これはどうしたことだろうか。あれだけの人が集まるのだから、そこに店を構えていれば売上がうなぎ昇りになってもおかしくないはずだ。ところが実態は逆であり、売上が下がるからと早めに店を閉めるところまであるという。「商売は人の集まるところでするべき」という、私の常識は間違っていたのだろうか。

いや、むしろ「渋谷のハロウィン」に集まる人々のほうが特殊なのかもしれない。あの場に集まる人々が実在するのは間違いない。実際に人が集まっているにも関わらず、そこで店を開いても売上が上がらないということは、つまり「ハロウィンで集まる人はお店に入らない」わけだ。わざわざ渋谷に出かけていって、お店に入って飲食することなく衣料品を買うこともない――これはどういうことなのか。

さらに私が疑問を抱くことになったのは、渋谷のハロウィンを取材したニュース番組で、参加者にインタビューするシーンだ。そこに映っていたのは学生だったが、彼らは地方からハロウィンに参加するためだけに長旅をしてきたと語っていた。どうやら、渋谷のハロウィンへ駆けつける若者は、首都圏に住んでいる人ばかりではないらしい。「地方からの参加者」も少なくないようだ。私には信じられないことである。

渋谷という場所は、かつては畏怖と憧れの対象だったように思う。私が学生時代は、まさに「若者文化の発信地」といった位置づけだった。「コギャル」「ギャル男」「ヤマンバ」など、渋谷から生まれて広まっていった文化は数知れない。私が中学生の時、すぐ近所に住んでいた同級生の女子が、急に肌を黒く焼いて登校する姿には驚かされたものだ。ある程度タイムラグはあるものの、渋谷の文化は全国的に浸透するものだった。残念なことに(幸いなことに?)、私はそこからかなり離れた生活を送っていたため、渋谷文化に対して嫌悪感を抱いていた。近寄りがたく、下手に距離が縮まるとトラブルに巻き込まれるのではないかと恐ろしくさえ感じていたのだ。

当然ながら、こうした文化の中心だった渋谷に足を踏み入れようなどとは露とも思わなかった。高校卒業と同時に上京したものの、「渋谷=怖い場所」という印象を常に持っていたように思う。人づての話でも、テレビや雑誌の情報でも、そうしたイメージは強くなりこそすれ薄まることはなかった。事実、渋谷というのはそういう場所だったはずだ。渋谷の文化に染まり、「イケてる」人間は歓迎されるが、そうではない「ダサい」人間は徹底して排除される。別に暴力的な行為が容認されていたというわけではなく、「ダサい」と認定された人間は渋谷を拠点に活動する人々から相手にされないという意味だ。

こうした「排除の構造」を非難する声もあるだろう。渋谷という街が一部の人々によって独占されているような状態に、不満を感じる人もいたはずだ。しかし、ある種の「足切りのシステム」があったからこそ、渋谷は「文化の中心」になれたと思う。文化とは、ある一定の線を生み出し、それを超えるかどうかを試されるものだ。そして、栄える文化には、「線の外側の人々が線の内側に入りたいと強く願っている」という状態が不可欠である。逆説に言えば、「願った程度では線の内側に入れない」状態を保つことが求められるわけだ。

しかし、渋谷の現状を見ると、そうした「文化を保つ線」が消えてしまったように思う。今回のテーマにした「渋谷のハロウィン」は好例だろう。あそこに集まる人々のなかには、少なくない数のいわゆる「田舎者」が含まれている。「何だか楽しそうだから行ってみよう」という軽い気持ちで渋谷に行ってしまうのだ。これを「渋谷の治安が良くなったから」と言う人もいる。もちろん、それは事実だ。私が恐れを抱いていた渋谷は、そこで文化を作った人々の縄張りになっており、ほかの人間を排除してきた。その方法は嘲笑や侮蔑による柔和なものもあったが、犯罪行為を含む強引なものもあったのだ。だから、渋谷の商店街などが協力して、「治安向上」を目指したのは自然な行為だったのかもしれない。

ところが、そうして「誰でも気軽に入れる渋谷」は商売に不向きな状況を生んだのではないか。渋谷が栄えていたのは、「渋谷文化」を求める若者がたくさんいたからだ。彼ら彼女らは、渋谷を訪れる度にお金を落とした。渋谷でしか揃えられないファッション・アイテムのために、いくらでもお金を支払ったのである。文化には、そうした魅力と魔力があるのだ。だが、今の渋谷に訪れる人々は違う。彼らは渋谷に足を踏み入れこそするが、渋谷という街に魅力を感じてはいない。もし街に魅力を感じているのなら、そこで売られているものに目を向けないわけがない。そこで食べられるものを無視するわけがないのである。

私は「治安維持が渋谷の文化を終焉させた」と断言できる立場にはない。あくまで、私が得られる情報は表面的なものや感覚的なものでしかないからだ。単に、治安向上を始めた時期と、渋谷文化衰退の時期が重なっただけかもしれない。偶然の一致というのは、めずらしくないものだ。ただ、渋谷文化に頼っていた渋谷の商店が、その後に続く何かを生み出せなかったのは確かだろう。

「渋谷のハロウィン」から、渋谷という街について考えてきたが、私はもう1つ不思議に思うことがある。それは、あのハロウィンに集まる人々だ。先に述べたように、彼ら彼女らの多くは渋谷という街自体には興味がないらしい。渋谷の商店街に入って買い物をするわけでもない人々は、一体何をしに渋谷を訪れるのだろう。

映像を見る限り、彼ら彼女らが何かをしているとは思えない。「仮装している」のはわかるが、その格好が必要になる「行為」は見受けられない。仮装は、ヲタク風に言うと「コスプレ」である。コスプレは多くの場合、単に仮装するだけで終わりではない。それを鑑賞する人がいたり、カメラで撮影したりする行為がついてまわる。だが、これ自体は特定の場所である必要はない。もし、場所を必要とするのなら、それは「その場所でしか撮影できない写真」のためである。

「渋谷のハロウィン」参加者を眺めていても、「渋谷でしか撮影できない写真」を求めている人がいるとは思えない。いや、まったくいないとは言わないが、大勢を占めてはいないだろう。渋谷を楽しむわけでもなく、コスプレ撮影をするわけでもない――あの集団の目的が皆目見当もつかない。

そこで、私は少し考え方を変えてみた。私は、彼ら彼女らが「何をするために渋谷に来るのか」と考えたが、これが間違っているのではないか。そもそも、「渋谷のハロウィン」に集まる人は「何かをすることを目的にしていない」のかもしれない。つまり、渋谷に「いる」ことが目的なのでないか。

こう考えると、いろいろな話に合点がいく。2018年の「渋谷のハロウィン」では、車を横転させた集団がニュースで取り上げられた。「なぜそんなくだらないことをしたのか」と思ったが、おそらく退屈だったからだろう。特にすることを決めずに、ただ「渋谷にいる」ことを目的にしていたから、いざ渋谷に来てみると「何すればいいんだ?」となってしまう。せっかく渋谷に来たのに、ただ人混みのなかで徘徊するばかりでは退屈極まりない。そこにお酒が入れば、もはや見境なく行動を起こしてしまうのも仕方ないだろう。もちろん、犯罪は犯罪だからペナルティは受けなければならないが。

また、「渋谷にいる」のが目的だとすれば、集まるのが地方の若者であるのも当然だ。首都圏に住む人からすれば、渋谷は単なる「近所」であり、そこにいること自体に意味はない。ところが、地方から来た若者にとっては、ただ「渋谷にいる」ことが価値を持つ。同年代の友人などに自慢するには十分な成果である。しかし、彼らが話すのはあくまで、「渋谷にいたこと」であり、「渋谷でしたこと」ではない。だから、そうした話題に誘われて翌年の「渋谷のハロウィン」に来る人も、特に何をするでもなく渋谷を徘徊するのである。面白いと思うのは、「渋谷のハロウィン」を目当てに集まった若者が、そこで袖すり合わせるのが同じような「田舎者」という点だろう。土地や文化に興味も抱かないまま渋谷を訪れた地方の若者たちが、自分たちとさほど変わらない「田舎者」の群れに身を投じて喜んでいるわけだから、実に微笑ましい限りである。

こう考えると、「渋谷」という場所は今でもブランドとして成立しているのかが疑問である。現在だけを考えるのなら、まだブランド力自体は残ってはいるだろう。しかし、それはいつまで通用するのか。いずれ、渋谷は「ハロウィンの時に若者が集まる場所」というだけになってしまう気もする。もっとも、私はそれを心配したりはしない。そもそも、「渋谷文化」なるものが肌に合わない私からすれば、渋谷が文化的な土地で亡くなったとしても特に影響がない。今年の11月にも、また同じような光景が見つつ、コタツでみかんを食べれればいいなと思う。