「自己責任論」より「責任論」が大事では?

「自己責任論」より「責任論」が大事では?

2018年は、久しぶりに「自己責任」という言葉をよく耳にした。海外で誘拐された某ジャーナリストが解放された事件を通じて、「わざわざ危険な地域へ足を運んだ本人の責任だ」という声が上がったのだ。これと同じような議論が以前にも巻き起こった時期がある。小泉純一郎政権下だった2004年、9・11アメリカ同時多発テロの影響が色濃く残り、政情が極めて不安定になっていたイラクにおいて日本人が誘拐された時である。

危険地域であると事前に分かっていたにも関わらず、使命感を持って現場へと足を運んでいた日本人数名が武装勢力に拘束された。最終的に人質たちは解放されたが、その後の日本国内において、彼ら彼女らの行動について「自己責任ではないか」という批判が巻き起こったのだ。「自分勝手な行動によって国益を損ねた」といった論調だったと思う。当時、私はこうした報道を見て、「他人が自己責任を問う」のは何ともおかしな話だと感じていた。

自己責任とは、「自ら引き受ける責任」のことだろう。もう少し噛み砕くと「自らの行動によって生まれた結果をそのまま受け止める」という態度だと思う。そういう意味では、「危険地域において身体・生命が危うくなる状況」こそ、拘束された人々の行動の「結果」だ。そして、彼ら彼女らはそうした「結果」について、他人を責めるような言動はしていなかったように思う。少なくとも、そうした危険な状況に陥ったのは、自らの行動による結果だと考えていたのだろう。にもかかわらず、そうした姿勢を見せ続けた人に「自己責任だ」と言い続けるのは的外れに見える。

一方で、彼ら彼女らを擁護する側の言葉にも疑問を覚えた。特に2018年の事件において、「ジャーナリストとして海外の正しい情報を知らせるため」に出かけていったというY氏の活動理由(理念?)を非難するのはおかしいという論調は不思議でならなかった。この話を普遍化して考えると、「一定の正当性を持つ行動であれば責任は問われない」ということになる。これは明らかに間違いだ。

そもそも、「責任」というのは、人の行為に必ず付随するものである。誰かが何かをした場合、そこに責任が発生する。そうである以上、どのような理由があろうとも、Y氏が行動を起こした時点で責任は生まれているのだ。問題は、「責任の所在」だけである。

行為から責任が発生するのは必然だが、必ずしも「行為者=責任者」とは限らない。本人が何ものにも縛られることなく、強制されることなく行為者になるケースなら、行為者自身が責任を問われるべきである。ただ、命令や脅迫などの強制力がある指示によって行為者になったなら、その責任は指示者が負うべきものだ。もちろん、行為者自身にもまったく責任がないとはいえないが、指示者の責任に比べれば小さいものだろう。たとえば、会社の命令によって業務を遂行した場合、そこでトラブルが起きたなら責任は会社が負わなければならない。ただし、会社の業務であっても本人に一定の裁量権があるなら、その権限に見合うだけの責任を問われるはずだ。つまり、行為者が負うべき責任は、「その行為についてどの程度の裁量を持っていたか」によって決まる。

件のジャーナリストは自らの意思(使命感)によって危険地域に足を運び、そこで拘束されたらしい。上記の話だけで語るなら、これは完全に本人だけの責任ということになる。だが、話はそれほど簡単ではない。なぜなら、「強制力のある指示」とは、ハッキリとした言語として現れるとは限らないからだ。

分かりやすい例は、「自殺」という行為だろう。他人から命令されたわけでも、強制されたわけでもない自殺は、すべて本人だけの責任だろうか。「過酷な労働環境」や「いじめ」など、外的要因から自殺を図る人間について、「自分で勝手に命を捨てた」と本人に責任を問うのは何か重要な部分が抜け落ちている。やはり、そうした周囲の「声には出ない強制」が働いていたと考えるべきだし、そうした強制への加担者は責任を負うべきだ。

こうした状況は自殺のようなネガティブな行為だけではなく、積極性を必要とする行為でも見られる。「大学生の一気飲み」なども、そうした「見えない強制力」によるものだろう。周囲からのある種の期待・要求に応えなければならない「雰囲気」が、自らの身体を破壊するような行為をさせるのである。この場合も、やはり行為者だけが責任を問われるべきではない。むしろ、行為者が「凶行」に走る原因を生み出した人々の責任について、しっかりとした議論をする必要があるだろう。

では、ジャーナリストと呼ばれる人々の使命感は、そうした「周囲からの期待・要求」に基づいているだろうか。たしかに、ジャーナリストが負っている任務として、「人々が求める情報を提供する」という部分はあるだろう。だから、彼ら彼女らの活動は、おおよそ「人々の求めに応じた」行為といえる。だが、それらの「期待・要求」は強制と呼べるほど力を持つものだっただろうか。

少なくとも、私には「海外の危険地域から直接情報が欲しい」という欲求はない。それを1フリージャーナリストに強制するような雰囲気が、世間を包み込んでいたとも思えない。そうであれば、自らの使命感によって行動を起こしたジャーナリストは、きちんと自らの責任と向き合うべきではないか。これは「自己責任」というよりも、単純な「責任」の問題である。

だが、どうもそうした「責任」の話をする人がいないように感じる。なぜか、責任よりも「自己責任」の話ばかりで、議論が「自己責任肯定派」と「自己責任否定派」の非難合戦になっていた。そこから見えるのは、「自己責任という責任転嫁」の形である。

前述したが、自己責任とは「自ら責任を引き受ける」ことであり、「行為者=責任者」となる状況こそ自己責任が問われるケースだ。そしてそれは、「自由な選択のために責任を引き受ける」という姿勢でもある。だから、自己責任は「自負」してこそ真価が現れるものなのだ。これを他人に問うのは、つまり「お前は自由を謳歌したから責任を取れ」と責め立てているに他ならない。この言葉の裏には、「私は自由に物事を決められない立場だから責任はない」という「日本人的な心理」が感じられる。

単純な「責任論」で片付く話を、わざわざ面倒かつ分かりにくい「自己責任論」にする必要はない。ただし、責任論はより普遍的な話であり、議論に参加する人間も「当事者」となる。そこで問われた責任のあり方は、議論に参加した本人に必ず返ってくる。自らの身を例外とすることは許されないのだ。

なるほど、だから「責任論」を避け、「自己責任論」に逃げるわけだ。自己責任論を押し付ける人も、それに反論している人も、「責任論」へ議論を進めないのは根本のところで同じ考えを持っているからだろう。要するに、「私は責任を取りたくない」と叫んでいるのだ。だから「責任論」のような普遍的な議論ではなく、「自己責任論」のような限定された条件下でのみ通用する話に留めようと躍起になっているのだろう。自己責任の肯定派・否定派で違うのは、それぞれの立場だけである。それなら1つ、私も「自己責任論」に乗っかろう。

『上記の文章は世間様からの要望を感じ取って執筆したもので、私自身には責任はございません』

実に便利な世の中である。