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知らないうちに、“クソ”エイターとして落伍する気持ちの罠
「高められた高みの意志は、燃え立つ炎も凍らせる」
大の大人が真昼間っから、原稿書いてても怒られない。
曲作ってても怒られない。マンガを描いてても怒られない。
私は物書きだけど、執筆途中にふいにこう感じるときがある。
これはプロ野球選手など、エンタメ的なスポーツでも同じことが言える。
大の大人が一見遊んでいるように見えて周りから怒られないのは、それが“職業”として成立しているからなのは言うまでもない。
稼いでいれば文句は言わせないし、自分の好きなことを表現できる。
上司もいない、定年も関係ない。
昔からこういった仕事を世間的には“自由業”と呼ぶが、そこにはいささかの侮蔑が込められているところがあるだろう。
そう、その侮蔑の根源にあるのは“羨ましさ”に他ならない。
社会人ともなれば、日々の仕事が生活の6~7割程度を占めるのは誰しもそうだ。
好むとも好まざるともだ。
私がそもそも物書きになっているのは、そもそもこの6~7割をコントロールしたいということにある。
したがって、好きなことをやりたいためにクリエイターをやっているわけではなく、お金を稼ぎたいからやっているわけでもない。
単に自由でいたい、それだけだ。
結果論として、好きなことがやれてお金が稼げるということはあるが、
まず私は仕事や人生から、そもそも自由でありたい。
ただ、自由というものは何も万能薬ではないものだ。
真の自由ほど、かえって不自由なものはない。
では、何が不自由か?
結局、自分を持て余し、自らを制御できないがゆえの暴発、焦り、妬み、虚無感……。
自由とは、絶対的価値を自らに置くがゆえに、自分を見失ってしまいやすい病のようなもの。
だから、精神の根っこの部分で、渇くほどの激情がなければ、そもそもクリエイターには向いていないだろう。
クリエイターであることは、技術にあらず、才能にあらず。
私は“意志”そのものが、クリエイターである姿勢や構えの唯一の判断基準だと感じている。
ここでいうクリエイターとは、小説家・漫画家・デザイナーなどから広くモノ作りに携わっている人間全般をさすが、
間違っても、意志が強いから良い、意志が弱いからダメだというチンケな論議ではない。
「なぜ、お前は作品づくりをしているのか?」という問いにきちんと答えられる姿勢そのものが、ここでいう“意志”である。
自分で何をやっているのか分からないときほど、愚かなものもないだろう。
作れもしないテーマで、いつまで時間をムダにしているのか。
自分の技量を見極められない者ほど、無様で愚かしい者ものない。
あなたは答えられますか?
なぜ、作品と向き合おうとしているのか。
今すぐ答えられないのならば、あなたをめでたく“クソ”エイターとして認定して差し上げます♪
まぁ、あなたが作品を作ろうが作るまいが、私にとってはどうでもいいこと。
ただ、こうして書いているのは、他人の作った良い作品に触れたいというのが私の中で強い願望――欲求としてあるからだ。
おもしろいものが好きである。
おもしろくないものも好きである。
その上で、超一級のおもしろいものが好きである。
クリエイターとして長くやっていくためには、何よりも自分自身の気持ちに対する素直さが肝心かなめである。
自分に素直でないものが、どうして他人に素直であれるか。
他人の意見を素直に聞けないヤツに、どうして見込みがあるか。
うまくなるために、すべての手段を講じる者こそ、私はクリエイターだと考えている。
作品を作り続けることでしか、お前の存在証明はできない!
「書かぬなら いっそ黙って 死んだらいい」
そして何よりも、クリエイターであることを自ら証明するためには、とにかくひたすら作品を作り続けなければならない。
私の場合なら、1にも2にも原稿を書き続けなければならない。
書くことでしか、私は私の存在を証明できないし、何ぴとたりとも私を定義することすらできない。
ただ、作りたくないなら、黙って作るのを止めればいい。
私は別に個人の人間性を否定するつもりはない。
ただ、本人が曲がりなりにもクリエイターだと名乗るのならば、私は激しくソイツの存在意義を問いていくだろう。
なぜなら、私にとって邪魔だからです。
そう、クリエイターだと名乗っておきながら(志望も含む)、作品を作らないヘタレが近くにいると激しく萎えるわ。
虫唾が走りつつ、反吐まみれになりそうだ。
もう一度言う。
お前がクリエイターだというのなら、作品を作り続けることでしか決して、その存在を証明できない。
百姓だって、職人だって立派なクリエイター。
しかし、機械はクリエイターにあらず。
「百姓が食べ物を作らなかったら、職人が生活必需品を作らなかったら、人間の文明は1ミリたりとも回らない」
モノ作りというものは、何もコンテンツに限った話ではない。
キャベツ農家であろうが、オナホールを作る職人だろうが、
そこにたしかな意志があるのなら立派なクリエイターであろう。
心から尊敬できる。
なぜなら、私には彼らのようにうまくは作れないし、キャベツやオナホールに対して、彼らほど激しい情熱が沸かないからだ。
出来上がったものには、すべからく作り手の意志が宿るものである。
だから、お金を払ってモノを買う。
機械はクリエイターにあらず。なぜなら、そこには意志が宿らないからだ。
人工知能なんぼのものだろうか。
クリエイティブは、決して機械に置き換えられるものではない。
人間の手で、人間のために紡ぎ出すものこそ、新たな物語を生み出す。
クリエイティブとは、いたって、どこまでいっても泥臭いものである。
人間のための小さくもコシの強い営みである。
別に私は機械を否定しない。現代人でそんなヤツいるのか笑
人間が機械を自分の手足のように使いこなすのならば、そこには確かな意志が宿っているはずだ。
それはとっても心地良いものである。快適で便利である。
あなたの存在が機械に置き換わるのであれば、やはりあなたはクリエイターではない。
道具や技術、知識は人間がうまく使いこなすためにあるものだ。
そう、それは武器。
武器単体では武器として意味を成さない。
武器とは人間が使って初めて、武器としての役割を担う。
万物にはテーマがある、目的がある。
テーマがあるから、物語が生まれる。
そして、人はいつの時代も物語を必要とする。
なぜなら、人は人生の目的を見出そうとするからだ。
機械には、道具には生きる意味などない。
であるなら人生は生きることそのものが目的であると言える一方で、
人というものはより良く、より自堕落に、より楽しく生きたいという代物でもある。
その願いにどれだけ答えられるのか。
そもそも、答える必要があるのか。
そういった無限ループ(永遠のテーマ性)と向き合うのが、クリエイターに与えられた役割なのだろう。
すでに、人の生き方など、ほぼ回答が出尽くしているのにだ。
飽くなき煩悩こそが、クリエイティブの源泉なのだろう。
だからこそ、その担い手には煩悩の塊のような者が向いているのは必然だ。
ビジネス感覚+作家性=収入 お前の立ち位置はお前自身で決めること
「やるからには勝たねばならない。最後に勝るのは”心の熱量”」
別に作品づくりを根性論でやり続けても、何もおもしろいことはない。
誰にも読まれず、お金も稼げず……そんな状況で続けていては単なるバカであろう。
私は何もこういった姿勢を否定しているわけではない。
大事なことは、その人が“時間軸”を意識できているかということにある。
どこまでいけば自分の目標を達成できるのか、きちんと見えているだろうか?
いつ、その目標を達成し、そのために今何をするべきかが見えているだろうか?
アマだから関係ない?
いいや、アマであればこそ、稼げていないうちであればこそ、成功したときの自分をきっちり想像できていないといけない。
ゴールも見えない、見えていないまま走り続けるのは、やはりバカだろう。
そういうヤツに限って、軌道修正ができない、他人の意見を素直に聞けない。
デビューすれば成功ではない。
よく言われるとおり、そこからが長いのである。
今から3年後、5年後、10年後のクリエイターとしての自分のあり方が見えているだろうか。
自分の道は誰から決めてもらうものではなく、自ら決めるものである。
作品を作る喜びを誰かに委ねてはいけない。
それは自らの幸せを誰かに決めてもらうのと同義だからだ。
ひたすらに作品づくりばかりをしていても、ボヤーっとした感覚では職業として成立させることはおろか、いずれ続けられなくなってしまうだろう。
ただ、自分の中でしっかりと時間軸があるのであれば、何も気にすることはない。
少しでも、うまくなっていくためには、やはり作品を作り続けることだ。
自分の道を自身で決める覚悟が今、問われている。
こんな駄文をいつまでも読んでいる場合ではない。
さあ、今から具体的に取り掛かれ!
お前がクリエイターをやり続けるかぎり、必ず誰かの迷惑になっている。
その誰かに申し訳ないと思うのならば、迷わず取り組めバカ者が。
ヘタは下手なりに一生懸命に取り組め。何かが伝えられる。
今お前が作っている作品こそが、お前自身だ。お前の値打ちだ。
だからこそ、超弩級の情熱を示してみせろ、バカ者が。
執筆:かたやまさん