昨日出したウ○コの形をあなたは覚えているの?
創作活動とは、何も高尚なものではない。
食べ物を口にし、排泄するかのごとく、クリエイターにとっては自然な行為である。
私の敬愛するSF作家Aは雑誌の取材記者に対してこう言った。
「昨日出したウ○コの形をあなたは覚えているの?」
読者諸君は、一体いきなり何を言っているのかと思うかもしれないが、創作する人間にとってはまさに言い得て妙といった言葉だ。
作品を作るためには色々と勉強をしなければならない。
けれども、勉強すればするほど自分の至らなさが分かり、ますます作品を作れないというジレンマに陥ってしまう。
真面目にやっているほど、そうした実感を抱くものだろう。
けれども、創作とは言うまでもなく、作品を作ることにある。
頭でっかちや耳年増になってしまって、全然手がつかないといったことは本来あってはならないことだ。
どんな作品を作るかの前に、まずは創作に対する基本姿勢を身につける必要がある。
そう、だからこそこの作家Aの言葉は大事なのだ。
食事を摂ったら(ネタを仕入れたら)、ウ○コを出す(作品を仕上げる)流れが創作活動だと捉えれば、それはまるで四六時中、息をしているのと同じことだ。
呼吸をするのと同じように、創作にあたれるのであれば、キミはもうクリエイターになっている。
大事なことは、排泄物(作品)にこだわりを持たないということだ。
冒頭の「昨日出したウ○コの形をあなたは覚えているの?」といった言葉の意味はそういうこと。
キミは覚えているだろうか、昨日のウ○コの形を。少なくとも、私は覚えてなぞいない。
ウ○コにこだわるは、“クソエイター”の始まり
とはいっても、もちろん作り手の気持ちも分かる。
こだわったキャラクター、ストーリー、世界観、異能力の設定……。
どれも自分にとっては宝物だろう。
が、しかし。それは将来キミのお客さんになってくれる人たちが、本当に求めているものだろうか?
否、否、否否否否否ぁ、否否否ああぁーーーーーっ!
あえて断言しよう、まったく求められていない。
つまりは、ウ○コ(=自分の作品)のこだわりしかない輩は、やはりウ○コの価値しかない作り手ということになる。
シンプルに言えば、自分の作った作品にこだわりを持たないことだ。
一度作った作品に未練を残すよりも、そのパワーを次の作品作りに傾けよう。
それが、キミのクリエイターとしての未来を切り開く唯一の道なのだ。
いま一度、自分の胸に問うてほしい。
クリエイターになりたいのか、
クソエイターになるのか。
何か変わっていれば、世間に受け入れられる?
クリエイティブはそんなに甘いものではなく、世間ズレをしているものでもない。
だって、キミの作品を買おうとする人たちは一般の人たちなのだ。
常識の上に成り立っている、そう世間一般なのだ。
真のクリエイターであるためには、常識を知らなければならない。
そう世間の常識よりも、さらに常識的に。
その上で、自分の形を強く持つことだ。
千日をもって「鍛」となし、万日をもって「練」となす。
剣豪・宮本武蔵の言葉だ。
鍛錬というものは、一日も欠かしてはならない。
一日休めば、感覚を取り戻すだけで三日は棒に振ることになる。
それでいいのか、キミよ。
だからこそ、まるで毎日排泄するかのように、作品づくりに取り組んでほしい。
キミの未来は、毎日の創作活動によってのみ、形作られる。
そのことをゆめゆめ忘れるな!